名前のないブログ

書きたいことをツラツラ書いていきます。変なこともいろいろ。。。(笑)

文字

今日のBlogから

フォント、色、文字の大きさを変えるのやめました。

 

思っていることがあります。

テレビで何でもテロップに出すの、

字幕放送だったら配慮とわかるけど、

ボケとかを大きな文字で出すとか、最近のトレンドですよね。

昔はありえなかった。

 

なんだろ。。。「ここで笑え!」とか指示されてるみたい。

一種の脅迫みたいに思えるんですよね。

ちょっと違うでしょ。

と言いつつ、

僕も伝えたいことは大きな文字にしたり、

派手なフォントの色にしていたけど、

誰がどんな内容を読んでどんなことを感じても、

それって自由なんですよね。

だから、等しく文字を並べる、というほうが本当はいいんだろうな。

それをそのまま読んで、

個々人がどう思うともそれは個々人の自由。

表現も自由だけど、受け取るのも自由だからね。

ということを思いめぐらせて、

フォントを統一する、そんな結論に至りました、とさ。。。(笑)

 

言葉

言葉の力ってすごい。

 

言霊とはよくぞ言ったもんだ。

 

言葉には魂が宿る、らしい。

 

たましいとは、

『身体に宿って心の働きをつかさどる』とされるもの。

ということは、

言葉には、心の働きをつかさどるものが存在しているということか。

ふむふむ、、

ということは、

言葉一つで心の働きが変わるということか。

なるほど。。。

つうことは、

 

余り前向きじゃない言葉はやめたほうがいいな。。

なんなら、前向きな言葉に無理やり変換してしまうか!(笑)

 

悩む=前向きに考える

辛い=心が癒しを求めている

泣く=心の水を放水する

怒る=自分への愛を最大限に表現する

むかつく=あ、自分そうじゃん!!

期待する=無理せずいこう!

勝つ=生きてる限りみんな勝ち!

負ける=生きてる限りみんな倖せ!

死ぬ=あの世で倖せに生きている!魂は現在も生きている!

仕事行きたくない=仕事に行くより、今を生け!!

お金がない=生きてる価値はある!

 

無理やりにもほどがある(笑)

 

何でもいいんですよ。

マイナスのエネルギーを言葉にしようとしている部分は認めつつ、

その表裏一体にあるプラスの表現を考えて無理やり口にするだけで、

全然自分の空気感が変わります。

 

いや~

言葉ってすごいですね~^^

眠れないとき

眠れないとき。

眠れない=眠ることが出来ない

というネガティブな単語から、

極力ネガティブな要素のない単語に

置き換えます。

 

眠れない=起きてる

という具合に。

 

で、

その後ろに、

【理由があるから、楽しもう】

と続けます。

 

今回の場合、

【起きてる理由があるから、楽しもう】

となります。

 

で、起きてることを味わう。

ここでいう「味わう」とは、

【起きてることに集中する】こと。

 

味わってると、

起きていたいから、起きていたと気付きます。

【起きていたい】が起きてる理由だったと気づけました。

 

全てに当てはまるとは言えませんが、

個人的にはこの考え方もありかなと思いました。

循環

神社に行き始めて1年が経過しました。

去年の1月、職場の方から教えていただいた、

寒川神社に初詣に行き始めたのがきっかけでした。

tetsu-shinri-hakken.hatenablog.com

 

あれから1年、今年は前厄だということもあり、

土曜日の日中に厄払いに行きましたが、

今年は『素晴らしい1年になりますよう・・・』とはお祈りはしていません。

 

実は僕がパワースポットと称したものに興味をひかれだしたのは、

このタイミングでした。

ちょうど、自由大学で<自分の本を作る方法>という講義を受けているときに、

神社学の先生の本を紹介されたこと(のちに買いました)。

その少し前から、パワースポットにも興味があったのですが。。。

 

今となっては笑える話ですが、

僕は辛い自分の現状から抜け出すために、

パワースポットや神社に行き始めた!というのが実際です。

そう、『他任せ』ですね。(笑)

または『神頼み』でしたね。

会社帰りに遠回りして小さな神社に行くのも、

最初は神頼み。

神様がいる、神様に助けてもらいたい!という気持ちからのもの。

 

もちろん、セミナーなどで自己啓発!なんてやっていたのも、

結果的には

『セミナーに行って、自分をよくする方法を知るため』

に行ってました。

 

そう、まさに他任せ!

自分ではない他人や外側からの知識に目を向けることでしか、

僕はよくなれないと思い込んでいました。

 

じゃあ、昨年の初詣で祈願した

『2017年の素晴らしいストーリー』は、実現したかというと、

結果的にはどん底まで落ちたけど、

振り返れば素晴らしい1年だったということになります。

本気で自分を見つめなおした1年だったし、

自分がどうしてこうなったのか、

その原点に到達できたし、

その原点も実は自分の勝手な思い込みだったし、、、

 

心のことを学び始めて約8年、

お手伝いいただいた方は数知れません。

色々なことを学んできて、一番の収穫は

『自分で自分を信頼すること』

『他人の人生を生きないこと』

でしか、

自分の人生を切り開けない

ということでした。

 

他人の人生を生きるということは、

自分の人生を生きてないこと。

だから、人のせいにしたくなることばかりが目立つ。

自分の人生を生きてないということは、

自分の内なる可能性に信頼を寄せていないから、

諸悪の根源は自分だと思い込んでしまう。

 

ではなくて、

自分の人生を生きること。

自分の人生を生きるということは、

自分の内なる可能性を信じて生きるということ。

自分の内なる可能性を信じることで、

自分の人生を生きている実感が出てくる。

自分の内なる可能性を認めることで、

自分のできたことに目を向けられるようになる。

そして、自分の人生を実感できるようになる。

あ、戻ってきちゃった(笑)

 

あっ!!

内なる可能性を信じると、

倖せのループに気付く

ことが出来るんじゃないかな、と

今、気づきました(笑)

 

あ、それにもう一個気づいた(笑)

倖せは皆の共通のものだということ。

自分だけじゃない、周りの人に共通するんだということ。

そして、その共通の倖せは

生まれたときから備わっていること。

これ、前も書きましたっけ( ̄▽ ̄;)

だから、倖せは独り占めできないもの。

株式投資と一緒。経済と一緒。

倖せは独り占めできません

ということは、

自分の内なる可能性に気付ければ、

他人の内なる可能性も

信じられるようになる。

 

おお~我ながら凄い気づきだ。

倖せも循環するものと考えると、

明日からもっと細かい気づきが得られるんだろうな~。

ゆっくり

ゆっくり歩こう

 

朝の通勤だって、

少し早めに起きて、

セカセカしないように、

少し早めに家を出て、

ゆっくり歩こう

 

帰り道もユックリ歩こう

 

急いでも差は数分

その分だけ

じっくり味わう

今を味わう

今を味わう

今に感謝する

感謝を感じる

 

自分にありがとう!と言う

生かせてくれて、

自分にありがとう!と言えたら、

朝の重たい足取りが、

少し軽くなりませんか?

 

休みの日も、ユックリ過ごしませんか?

仕事の日でも、ユックリ歩きませんか?

 

ココロに余白を作りませんか?

 

余白は自分の素晴らしさを

改めて感じさせてくれますよ

余白は自分の魅力を引き立たせてくれますよ

 

自分は素晴らしいと気づくためにも、

自分は素晴らしいと認めるためにも、

自分は素晴らしいと受け止めるためにも、

ココロに余白を作りませんか?

 

ユックリ、

ゆっくり、

歩きながら

ゆったりしながら

自分を

味わいませんか?

毎日精いっぱい。

急な訃報、

急な事故死、、、、

 

一日仕事が終わって、

バスの中でボケーっとスマホ見ていたら、

元アナウンサーの訃報、

そして自衛隊のヘリ墜落の事故、、、

 

数年ぶりにテレビを見れるようになったのだが、

なんでテレビを見ててこんな切ない気持ちになってしまうんだろう、

と思った。

 

でも、一日を細かく振り返ってみると、

本当にどうでもいいことでも、倖せを感じることが出来る。

節分を2日過ぎたが、

夕方スーパーでまだ節分豆が売っていた。

思わず2日分買ってしまった。

僕はゆでた豆が嫌いだ。

豆みたいな頭をして申し訳ないが、

大豆で食べれるのはきな粉か節分豆しかないのである。

節分豆がコンビニやスーパーで陳列され始めてから、

年の数は関係なく普通に食べまくっている。

知らなかったのだが、大豆は体にいいらしく、

食物繊維がたくさん入っているそうで、

他にも栄養が良く、1日50g以上は食べるといいとか。

ホントかウソかわからんが、そうらしい。

今年からはまった??大豆というか、節分豆。

もう立春過ぎてから、コンビニはバレンタイン商戦。

もう会えないと思った矢先に、

お~最後のワゴン販売。。。

誰に何と言われようとも、

これで倖せを感じた自分がここにいる。

たかだかそれだけ?と言われても、

僕は倖せなんです。

 

まだまだ病を乗り越えてる過程ではありますが、

僕は生きているだけで

倖せだとずっと言っています。

毎日毎日精いっぱい生きて、

小さくても大きくても、

倖せをかき集めていくだけ。

休むときは精いっぱい休む。

動くときは精いっぱい動く。

自分をしっかりと感じる。

お金がなくても、

顔がダサくても、

太っていても、

彼女いなくても、、、、え?悲しくなるって???(笑)

俺は倖せなんや!!

生きてるだけで倖せなんや!!

別に無理して倖せやて虚勢を張る必要はない。

無理しないでいい。

自分に出来る精いっぱいで生きればいい。

今の自分に出来る精いっぱいは、生きること。

毎日精いっぱい生ききること。

それが生きていることと、

自分への感謝だから。

勝負という幻

昔こんなこと言われました。

『このままチームをやめたら、お前は負け組だぞ。

 きちんと良くなって、ここに戻ってこい!』

小学校の時、やりたくない少年サッカーをやらされました。

兄もやっていたというだけで、無理やりやらされた。

やりたくないサッカーを5年間も。。。

親が半ば無理やり継続させた感じでした。

 

大学生になって初めてアルバイトを始めたところでも、

色々あってブチ切れてバイト先をやめようとしたとき、

3流よりも低俗な社員に同じこと言われました。

『このままやめたら、お前は負け組だ!』

 

それ以外にもあと数回言われてきています。

 

当時もつい去年まででもだったのですが、

僕自身そんなにメンタル強くなかったから、

そのまま、はあ、と言ったりして聞いてしまい、

その辺の言葉を浴びせられると、

本当に負けたかのような気分になりました。

 

で、、、それから1年経過した今、ふと思う疑問があります。

。。。

負け組って何すか?

何をもって勝ち組で、

何をもって負け組なのか?

お金か?

地位か?

名誉か?

成功か?

起業独立か?

結婚か?

高級住宅か?

どんな状態を勝ち組というのか?

僕は8年前の自分の理想は、

ソロモン流に出るような人たちだった。

多分、成功とかできる人とか、そういうイメージしかなかったし、

社会人になったら、お金をためて、結婚して、幸せな家庭築いて、、、

ということを教育されてきたと思う。

 

野宿している人たちは負け組か?

103系の引退の時、写真を撮りに大阪の新今宮駅周辺をふらついたことがある。

あの辺りはアウトロー生活の人たちが非常に多いが、

彼らは倖せかどうかは僕にはわからない。

彼らが不幸だと思っているのは、

アウトロー生活をしていない自分たちの思い込みだ。

僕がお世話になったコーチングの方から勧められた、

精神科医神田橋條治先生の本にもありましたが、

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4422115448/ref=oh_aui_detailpage_o04_s00?ie=UTF8&psc=1

一番ストレスから遠いところは、あのアウトロー生活だと書いてありました。

 

キングコングの西野さんの講演で、

50円で何でもやりますという芸人さんの話を聞いたことがあります。

芸人さんだけど金はない。

でも、食事には苦労してない。

色々食べさせてもらっている。

だから、倖せに生きているという話です。

 

つまり、

生きている限り倖せでありますし、

みんな勝ち組でも負け組でもないの!

それでも「いや違う!負け組はいる!」って思う人は

勝手にどーぞ!!!

 

もし仮に、

お金・地位・名誉・成功・起業独立・結婚・高級住宅・・・

とか、自分にないものを持っているという人が身近にいたとしても、

その裏にはとんでもない苦労が潜んでいるんです。

今、成功したかのようにみられる人でも、

苦労の連続が沢山あるもんです。

人生トータルで考えたら、

足しても引いても、

プラスにもマイナスにもなりません!

ゼロです!!!

だから、勝ちも負けもありません。

 

もともとの能力の差はあったとしても、

それは勝ち負けには該当しません。

競技でも勝った負けたとよく言いますが、

あの日本語は間違っている。

能力が秀でているかそうでないかだけ。

勝っている人が倖せかと言われたら、

絶対本人はNo!というでしょう。

 

本当の倖せは

『生きていること』そのもの

であります。

勝つこと・負けることは存在しません。

だから、勝ち組・負け組なんて存在しません。

だから、周りの人たちみ~んな倖せなんですよ。